法然上人の「石棺」
「嘉禄の法難」(法然上人は建暦二年(1212)、80歳で入滅なされ、御遺骸は京都東山大谷の地に埋葬されていた。
広がる法然上人の教えに危機感を覚えた比叡山の僧たちによって、上人の墳墓の破却が企てられた。)のとき、迫害者の手から法然上人の御遺骸を守るために、この石棺を太秦広隆寺の近くの藪に隠しておいたと伝えられています。
この石棺から一条の光明が放たれ、粟生の地を指し示したことから、法然上人の御遺骸をここで荼毘に付すことになったのです。光明寺の由来とも深いつながりのある石棺です。