光明寺とは
西山浄土宗の総本山光明寺は、長岡京市西山のふもと、粟生広谷にあります。
1198(建久九)年、法然上人の弟子となられた熊谷蓮生(れんせい)法師(熊谷次郎直実)によって、京都府長岡京市西山のふもと粟生広谷の地に御堂を造立したのが始まりです。
また、師である法然上人を開山一世と仰ぎ、自らは二世となられ、法然上人より「念仏三昧院」の寺号も頂きました。
1227(安貞元)年、叡山の衆徒が法然上人の墳墓を暴く企てを、上人の遺弟たちがご遺骸の石棺を太秦に移すことで防ぎました。
翌1228(安貞2)年正月20日夜、上人の石棺より数条の光明が放たれ南西の念仏三昧院を照らすという奇瑞が現れました。
同月25日ご遺骸を念仏三昧院に運び、荼毘に付し寺の裏山にご芳骨を納め御本廟を建てました。
以来光明寺は宗祖法然上人の御遺廟の聖地として信仰を集めています。
また寺名は、この時の奇瑞にちなんで、四条天皇より勅額を「光明寺」と賜ったことによります。
光明寺とゆかりの上人
法然上人
法然上人は24歳の時、比叡山から南都遊学の旅に出られました。
その途中、粟生の里の長者高橋茂右ヱ門宅に一泊され、その際「ご房が求められようとする、
『誰もが救われる法門』が見つかりましたなら、是非とも我らにその教えをお説き下さい。」と茂右ヱ門夫婦に懇請されました。
20年を経て、専修念仏の確信をえた法然上人(43歳)は比叡山を下り、
約束通り粟生の里をお念仏の教えを広く説き始める地に選ばれました。
このような因縁に依って、念仏発祥の地、「浄土門根元地」の御綸旨を正親町天皇より賜りました。
また法然上人滅後、専修念仏の教えは増々の広がりを見せました。
その現状に不満をもった延暦寺衆徒により、法然上人墳墓の破却が企てられました(1227年)。
そこで門弟たちはご遺骸を京都太秦へ移しました。
すると、法然上人の石棺から数条の光明が放たれ、粟生の里念仏三昧院(現光明寺)を照らしたのです。
門弟たちは相談の上、法然上人の17回忌にあたる1228年1月25日にこの地へと移してご火葬されました。ご遺骨の大部分は当山に納め遺廟を築くべきであるとなり、芳骨を納め上に石塔を安置し雨露をさえぎる為に廟堂を造立しました。
西山上人
西山上人(善慧房證空)《1177~1247》は14歳で法然上人の弟子となり、それから約23年間法然上人に師事しました。
西山上人が出家の際は、その求道心に感動された法然上人は涙を流し剃髪をされました。
本来であれば、見習い期間を必要とするところ、入室と同時に剃髪出家を認められるほどの器量の持ち主でした。
また、西山上人は法然上人の専修念仏の教えを忠実に修学された弟子です。
法然上人は当時の太政大臣九条兼実公の懇請に応じて『選択本願念仏集』を著されました。
その作成において執筆の役(第三筆)と勘文の役を西山上人に担わせました。
勘文の役割は法然上人が言われる教えの根拠を経典や論書のうちから探し出すという仕事です。
これはよほど経典・論書に精通してなければできない役割です。
西山上人の学びは尽きることなく、後には天台宗における止観の法門と密教(台密)を学ばれました。
これらの修学は法然上人の推挙によって行われたことで、
法然上人は西山上人を立派な学僧に育て上げ、
また自ら打ち立てられた専修念仏の教えを、
四宗兼学(総合的な仏教理解)のもと学ばせる為でもありました。
それゆえに西山上人は、法然上人より教理・教学のことを一任されるほどの人物でした。
西山上人は第3世幸阿上人の跡、光明寺第4世として10年程一山の興隆を計られました。
それ以降光明寺は西山派の第一寺院として現在に続いています。
蓮生上人(熊谷次郎直実)
源平の戦いで名をはせた武者熊谷次郎直実は、
「どんなに罪が深かろうと、念仏を一心に申せば必ず救われる」という法然上人の教えに出会い直ちに弟子入りを決意、
剃髪して法力房蓮生と名づけられました。
数年のご修行後、蓮生上人は静かに念仏三昧の生活をおくりたいと願い、
建久九年(1198年)法然上人のおすすめで粟生の里に寺を建て、
法然上人を勧請して入佛落慶法要を営まれました。
法然上人からは「念仏三昧院」の寺号を頂き、これが光明寺の創建となります。
光明寺の歴史
保元元 | 1156 | 法然上人は南都に遊学の際、粟生の地(現在の光明寺付近)高橋茂右衛門宅に宿を借り、最初の教えの約束を交わす。 |
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承安五 | 1175 | 法然上人は浄土宗を開宗し、約束の通り粟生の地にて浄土宗の教えを最初に説く。 |
建久九 | 1198 | 蓮生法師が光明寺の前身「念仏三昧院」を建てる。光明寺創建。 |
嘉禄三 | 1227 | 法然上人の墳廟を破却して、遺骸を鴨河に流す勅許が下りる。 |
嘉禄三 | 1227 | 太秦広隆寺の来迎房円空の許に、法然上人のご遺骸を移す。 |
安貞二 | 1228 | 法然上人の石棺より光が放ち、その光が念仏三昧院まで届いていた為、ご遺骸を念仏三昧院へ移して荼毘にふす。まさにその日は16年前に法然上人がご入滅した同月同日である。荼毘の後、ご芳骨を現在の御本廟へ奉安し、その上に石塔を建てて廟堂を建てて浄土一宗の祖廟と仰ぎ奉ることになる。 |
安貞二 | 1228 | 法然上人ご自作の張子の御影の尊像を安置する御影堂を建てる。 |
貞永元 | 1232 | 四条天皇より「光明寺」の寺額を賜る。念仏三昧院から光明寺へ変更する。 |
嘉禎四 | 1238 | 西山上人が光明寺第四世となる。浄土宗西山派祖。 |
建長二 | 1250 | 法興浄音上人が光明寺第六世となる。西山西谷義祖。御忌会の法則を定め置く。 |
永正四 | 1507 | 後柏原天皇より西山一宗の第一寺として綸旨を賜る。 |
永禄六 | 1563 | 正親町天皇より「浄土門根元地」の綸旨を賜る。 |